23 min read

書くことはテクノロジーである ─ Joan Didionの言葉から生成AIまでの思想的探究

書くことはテクノロジーである ─ Joan Didionの言葉から生成AIまでの思想的探究
Photo by Brent Gorwin / Unsplash

Joan Didionの一文から始める思索

“I write entirely to find out what I’m thinking, what I’m looking at, what I see and what it means, what I want and what I fear.”
― Joan Didion

この一文は、書くことの本質に迫る比類ない直観である。

人はなぜ書くのか。思っていることを伝えるためか。感じていることを残すためか。あるいは、外界を記録し、内面を整理するためか。それらはすべて正しい。しかし、Joan Didionが示すように、「私は、自分が何を考えているかを知るために書く」という反転は、私たちの認識に根本的な問いを突きつける。

書くことは、思考の結果ではない。書くことは思考そのものである。
思考とは、頭の中で行うものではない。むしろ、それは手を動かし、文字を綴り、言葉にしてはじめて輪郭を持つ。

この視点に立つならば、書くこととは道具である。しかもそれは、単なる物理的なツールではない。書くことは、認識を生むための技術〈=テクノロジー〉である。思考は書くことで初めて生成され、書かれることで自らを知る。

ここでは、Didionの一文を起点として、「書くことはテクノロジーである」という命題を中心に据え、思想的な推移をたどりながら、生成AIという現代の「書くこと」をめぐるテクノロジーの極点に接続する試みである。

書くことは思考の行為である

考えるために書くという逆説

私たちは、言葉を使って思考する。だがその順序は、決して「考えてから書く」ではない。むしろ「書くことで考える」というのが、現実の感覚に近い。

Didionが語るように、「自分が何を考えているのかを知るために書く」という行為は、まず「思考が明確に存在するわけではない」という前提を含んでいる。私たちの「思考」は混沌としており、それ自体ではしばしば輪郭を持たない。書くことは、その混沌に形を与え、構造を付与し、可視化する行為である。

これは、哲学者たちが「記号」や「表現」と「思考」の関係性を問う中で再三立ち返ってきた主題でもある。たとえばハイデガーは、言語こそが存在を開示する媒介であると述べた。「言葉は存在の家である」という命題は、書くことが単なる情報伝達を超えて、私たちの〈在り方〉そのものを規定する技術であることを示唆している。

書くことは、すでにある思考を記録するのではない。書くことで思考が発生し、構造化される。この意味で、書くことは思考の行為そのものである。

内面の可視化としての記述行為

Didionの一文はまた、「私が何を見ているのか」「それが何を意味するのか」「私が何を恐れているのか」を知るために書く、と続く。この点は、書くことが単なる言語操作を超えて、内面の自己観察の装置であることを意味している。

つまり、書くことによって私たちは、自らの感情や欲望、恐れ、欲求といった曖昧な内的現象を、対象化し、名前を与えることができる。これは、精神分析や自己分析の営みにも通じる。書くことは、自分の中の「語りえなさ」に言葉を与え、言語化不可能だったものを言語の世界に引き入れる技術である。

この点で、書くことは〈自己との距離〉を生み出す。内面に沈んでいたものを、紙の上、画面の上に引き出すことによって、私たちはそれを外から見ることができる。つまり、書くことは私たちに〈他者としての自己〉を見せる行為なのだ。

テクネーとしての書くこと

テクノロジーと技術の語源

「テクノロジー」という語は、あまりにも現代的な響きをもって語られがちだ。スマートフォンやAI、ロボット、自動運転車といった、最先端の工学的産物を想起させる。しかし、この言葉の語源に立ち戻るとき、私たちはまったく別の風景に出会う。

「テクノロジー(technology)」の語源は、ギリシア語のテクネー(techne)とロゴス(logos)である。テクネーとは、制作・創造を通じて何かを生み出す知識や技能であり、単なる手仕事ではない。むしろ、それは自然に対して〈何かをもたらす〉力、つまり潜在していたものを現前化する働きである。

古代ギリシアにおいては、芸術も技術も区別されず「テクネー」と呼ばれた。詩を書くこと、器を作ること、家を建てること、そのすべては見えない構想を形にする行為であり、ゆえに「技術」ではなく「技芸」だった。

このことを踏まえれば、書くことはまさしく「テクネー」である。つまり、書くことは、未分化で曖昧な思考を、文字という形式において具象化する創造行為である。

そして、テクノロジーとは、テクネーの成果を制度化・体系化したものに他ならない。書くという営みは、古代以来、単なる記録や装飾ではなく、思考と創造を可能にするテクノロジーの祖型として機能していたのである。

道具としての言葉、道具としての記述

もし「書くこと」がテクネーであるなら、それは当然ながら道具を必要とする。筆、ペン、タイプライター、キーボード、そしてテキストエディターやソフトウェア。書くという行為は、つねに何らかのメディアを介してなされる。

だが道具とは、単に「補助的なもの」ではない。道具は、思考の在り方そのものを変容させる。
ハイデガーは、道具を使うことで人間の世界の見え方が構成されると述べた。たとえば、ハンマーを持ったとき、人間は世界を「打つ対象」として把握しはじめる。では、ペンを持つとき、私たちは何を「打つ」ことになるのか。それは、世界そのものを記述しなおすことであり、自己の内面を形式化することである。

つまり、書くことは、世界と自己に対する〈再構成〉を可能にするテクノロジーである。そしてその再構成は、言葉という道具の特性に依存する。

記述には常に制約がある。言葉で書けること、書けないこと。言葉の選択、文法の構造、言語の文化的文脈。それらすべてが、「書かれる思考」=「形成された思考」を方向づける。だからこそ、書くという行為はただの反射や記録ではなく、世界の記述の一形態としての「思考の技術」となる。

テクネーとしての書くことの倫理

しかし、テクネーはつねに中立ではない。プラトンは『ゴルギアス』において、技術(テクネー)には本物の技術(真理に奉仕するもの)と似せものの技術(快楽を求めるもの)があると述べている。これは書くことにもあてはまる。

私たちは、思考を深めるために書くこともできるが、扇動し、欺き、装飾するためにも書くことができる。すなわち、書くことは常に権力を伴う。

この倫理的次元は、現代の情報環境においてますます顕在化している。フェイクニュース、プロパガンダ、情報操作、炎上、感情誘導。これらは、書くことがいかにして「思考の生産装置」でありうるかを証明する。

書くことがテクネーであるならば、それは使い方次第で、人間の思考を開花させもすれば、歪めもする。その意味で、「書くことをどう使うか」は、単なる技術の問題ではなく、倫理の問題であり、存在の問題である。

書くことは〈媒介〉である

媒介性としての「書くこと」

書くこととは、常に何かを介して何かに到達しようとする行為である。自分の思考を紙に書く、読者に向けて文章を編む、ある出来事を記録する。いずれの場合も、書くことは自己と世界、自己と他者のあいだに〈橋〉をかける行為であり、純粋な内的体験ではなく、常に媒介的構造を持っている。

このことは、書くことの本質を「媒介(mediation)」と捉えることに通じる。つまり、書くことは主体から発せられるものではなく、主体が世界と関係を結ぶ中で生じる媒介的プロセスである。

この媒介性の理解は、現代思想の中でも特に重要なテーマとなっている。バフチンやベンヤミン、ドゥルーズ=ガタリなどは、言語や表現を「伝達の道具」としてではなく、「生成のプロセス」として理解した。そこでは、書くこととは何かを「伝える」のではなく、何かが〈生成される場〉そのものである。

書くことが生む距離と視点

書くことは、私たちに世界を対象化する視点を与える。それは、目の前の出来事からいったん距離をとり、それを言葉に置き換えることで、出来事を理解可能な「語り」に変えるプロセスである。

ここに、書くことの〈遅延性〉がある。たとえば、怒りや悲しみを感じた瞬間には、言葉は出てこない。だが、書こうとすることで私たちは、その感情の構造を把握し、他者に伝えうる形式に変換する。この時間差、この距離が、書くことを思考の技術たらしめている。

メルロ=ポンティの言う「見ることは見ることを学ぶことである」という命題になぞらえれば、「書くことは書くことを学ぶことである」と言えるかもしれない。書くことは単なる出力ではなく、観察と距離、構造と意味を生み出す知覚の形式である。

その意味で、書くことは記録ではなく、再構成の技術である。実際にあったこと、実際に感じたことをそのまま書くことはできない。書くとは、常に「何かを書き落とす」ことであり、そこに選択と構成が介在する。ゆえに、書くことは〈事実〉ではなく〈意味〉を作る。

他者性の生成としての書くこと

さらに重要なのは、書くことが〈他者〉を不可避的に含むという点である。

たとえ誰にも見せない日記を書いていたとしても、そこには常に想定される読者、つまり「仮想の他者」が存在する。書くこととは、言語という公共性を持った手段を用いる時点で、つねに他者を招き入れる行為である。

ジャック・デリダは、書かれた言葉はつねに「脱文脈化されうる」存在であり、それは書き手の意図を離れ、他者の手に渡るものだと述べた。つまり、書かれた言葉は常に「誤読」される可能性を含み、それゆえにこそ豊かで、開かれている。

この開かれている=他者性こそが、書くことの根源的な特徴である。書くことによって、私たちは自己の内部に他者の視線を取り入れ、自分が他者からどう見えるかを想像しはじめる。これはまさに、自我の構造そのものが〈書くこと〉によって形作られていることを意味する。

書くことの媒介性が開く可能性

書くことが媒介であるということは、それが通路(passage)であると同時に、生成の場(site)でもあるということである。

つまり、書くことは単に思考を「運ぶ」のではない。それ自体が思考を〈生成〉する空間であり、関係性を〈発生〉させる装置である。ゆえに、書くことは常に媒介性を孕む創造のプロセスであり、自己と世界、自己と他者をつなぐ〈場〉そのものである。

このような書くことの媒介性を理解したとき、私たちは書くことの行為を単なる「手段」としてではなく、存在の形式としてのテクノロジーとして捉え直すことができる。

書くことの主体と権力

誰が書くのか ─ 主体の問い

書くことの根源的な問いは「誰が書くのか」にある。すなわち、書かれたものは誰の声なのか?その声は、どのような立場から語られているのか?という問いである。

Didionのように「私は書く」と語るとき、その「私」は安定した主体のように見える。しかし、現代思想はこの「私」の安定性を疑うことから出発した。デリダは、「書くこと」において主体はその痕跡を残すが、書かれたものはすでに書いた者を離れて他者のものとなると述べた。

また、フーコーは有名な講演「作者とは何か」で、作者という概念そのものが近代の制度によって形成されたものであり、「著者性(author function)」は権力装置の一部であると指摘している。つまり、誰が書いたかという問いそのものが、権力関係に支えられている。

この視点から見ると、書くことは単なる表現行為ではなく、書く権利、語る権利、名乗る権利をめぐる闘争となる。

誰の声が語られているのか

書かれる言葉は、常にある位置から語られる。そこには「語る者の位置(positionality)」がある。

たとえば、歴史を書き記すとき、「書かれる側」はしばしば沈黙させられる。植民地支配、ジェンダー差別、階級的不平等。こうした構造の中では、「書くこと」が特権的な行為であり、それを可能にする言語や制度にアクセスできる者が、他者の運命を語ってきた。

ガヤトリ・スピヴァクは有名な論文「サバルタンは語ることができるか?」において、周縁化された人々の声は、支配的な言語体系の中では不可視化され、翻訳され、歪められると論じた。書くことがテクノロジーであるならば、それは同時に、誰がそのテクノロジーを使えるのかという問いに直面せざるを得ない。

この構造は、生成AIのような現代の書くテクノロジーにもあてはまる。AIは「誰か」の語りを模倣する。しかし、その「誰か」は、学習データの中に統計的に多く現れる声であり、しばしばマジョリティの視点である。したがって、AIによる「書くこと」もまた、すでに偏りと権力を内在している。

書くことと構造の再生産

書くことがテクノロジーであるならば、それは社会構造の再生産装置にもなりうる。新聞、教科書、広告、法的文書、SNSの投稿。あらゆる「書かれたもの」が、私たちに世界の見方を与え、ある枠組みの中に私たちを位置づけている。

たとえば、「女性とは」「成功とは」「国家とは」「正常とは」といった語りの枠組みは、多くの場合、書かれた言説の積層によって形成されている。そしてこれらは、「語る側」が「語られる側」を規定することで成立している。

ジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』の中で、性別さえもが言説によって構築されると述べた。つまり、私たちの「自己」さえも、書かれた言葉によって形作られているのだ。

この視点は、書くことを単なる自己表現としてではなく、構造において位置づけられた行為として理解することを促す。つまり、書くこととは、常に権力に関与する実践であり、社会的意味の回路に組み込まれた行為なのだ。

脱中心化された主体と書くことのポリティクス

以上から浮かび上がるのは、書くことのポリティクスである。書く主体はもはや「個としての作者」ではない。書くことは、多声性の中で生成され、構造の中に位置づけられる。

ここで「書くことの民主化」という理想もまた検討される。インターネット、SNS、そしてAIの登場により、誰もが書くことができるようになった。しかし、本当に「書ける」のか?誰もが「書く主体」として認識され、読まれ、解釈されるのか?

この問いは、書くことがテクノロジーである限り、つねに政治的であることを示している。書くことは、主体と構造、表現と制度、自由と抑圧の交点にある行為なのだ。

書くことは生成である

書くことの〈生成性〉とは何か

書くという行為は、あらかじめ決まった意味を写し取るものではない。それはむしろ、書くことで意味が生じるという生成的なプロセスである。つまり、意味は書く前からそこにあるのではなく、書くことを通じて初めて現れるのである。

この視点は、「記録」や「伝達」としての書くことから、「生成」や「創発」としての書くことへの転換を示している。書かれる言葉は、書くという行為において常に何か新しいものを産み出す。そこには意図や構想を超えた、言葉の自律的運動がある。

たとえば物語を書くとき、初めに思っていたことと、書かれた物語がまったく違う内容になることがある。これは、言葉が書き手のコントロールを超えて、自らを展開しはじめることを意味する。つまり、書くこととは、言葉による出来事=生成そのものなのだ。

ドゥルーズ=ガタリと「生成変化」する書くこと

このような「書くことの生成性」を最も徹底して理論化したのが、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリである。彼らは『千のプラトー』の中で、書くことを「生成変化(becoming)」の運動として捉えた。

彼らにとって、書くことは「表現」ではなく、「変容」である。つまり、書くことによって自己が変化し、文体が変化し、世界との関係性が変化する。書くことは、固定された「私」から流動する「他」へと変化する運動であり、「書く=変化する=生成する」という等式が成立する。

このとき、書く主体は「個人」ではない。書くという行為の中には、言葉、文化、制度、無意識、歴史など、複数の力が交錯し、生成されるものがある。つまり、書く主体は常に多重的で、分裂的で、過渡的なものである。

ドゥルーズ=ガタリはこれを「脱領土化(deterritorialization)」と呼ぶ。書くことは、既存の秩序や文脈を逸脱し、新たな領域を生成する行為なのである。

書くこととコード/言語のアルゴリズム的性質

この「書く=生成」の理解をもう一段階進めるために、書くこととコード(code)の関係に注目してみる。

コードとは、言語と同様に記号の体系である。プログラミングにおいてコードは、特定の規則に従って命令を与え、実行されるものだ。しかし、その規則性の中にこそ、新たな意味や機能を生み出す可能性=生成性がある。

言語もまた一種のコードである。文法、語彙、語順、比喩。これらは一見固定された体系に見えるが、その組み合わせや運用によって無限の意味が生成されうる。たとえば、ひとつの比喩が新たな認識の回路を開くように、言語の操作は世界の見え方を更新する。

このような「アルゴリズム的生成性」は、書くことが構造と運動の交錯点であることを示している。書くことは決して自由奔放な創作ではない。むしろ、言語の規則という構造の中で、微細な逸脱やゆらぎによって生成されるものなのである。

書くことの生成性と生成AI

そしてここで私たちは、「生成AI」という書くことのテクノロジー的極点に出会う。ChatGPTをはじめとする生成系AIは、大規模な言語モデルをもとに、入力されたテキストに対して統計的に最も自然な出力を返す。

これは、一見すると人間の書くことを模倣しているように見える。しかしその本質は、まさに先に述べた「書くことの生成性」に関わっている。生成AIが行っているのは、言語というコード体系の中で、意味の可能性を再構成する行為=生成行為である。

もちろん、AIは自らの意図を持たない。だが、それでもなお、そこには「書くこと」が持っていた生成的・創発的性質のある種の模倣が含まれている。

つまり、AIの登場によって明らかになったのは、人間の書くこと自体がすでに「生成的=アルゴリズム的」な性質を持っていたという事実なのである。私たちはAIを見て驚くが、それは同時に、私たち自身の「書くこと」がいかに自動的で、構造的で、他律的なものであるかを突きつけられているからにほかならない。

生成AIと書くことの変容

AIに「書かせる」という行為の意味

私たちは今、「AIに書かせる」という経験を日常的に持ち始めている。ChatGPTに文章を生成させる、要約を依頼する、ストーリーを書かせる。これらはすべて、従来「書く」とされてきた行為が、他者―しかも人間ではない存在―に委譲されている状況を意味する。

だがここで重要なのは、AIに書かせるという行為が、単なるアウトソーシングではないという点である。それはむしろ、「書くこととは何か」という概念自体の再定義を迫るものである。

生成AIが書いたテキストは、人間の手によるものではない。しかし、その書き方は、人間が書くことの統計的な傾向に依存している。つまり、生成AIの「書くこと」は、人間の過去の書き方の集積であり、記号的傾向の写像である。

ここに、「書く」という行為の主体性が揺らぎ始める。「誰が書いたのか?」「書いた者は何を意図していたのか?」という問いは、生成AIを介した文章においては、必ずしも答えを持たない。主体なき「書かれたもの」が氾濫する時代、それは「書くこと」自体の定義が根底から変容することを意味している。

人間とAIの協働的生成

現在多くの人が行っているのは、完全にAIに任せることではなく、AIと人間の協働的な生成(co-authorship)である。たとえば、アイデアをAIに出してもらい、それを人間が推敲する。あるいは、草案をAIが書き、人間がリライトする。

この協働的な書き方は、もはや「誰が書いたか」を一義的に問うことを困難にしている。そこでは、AIの出力に対して人間が応答し、再構成するプロセスが書くことそのものになっている。

ここで思い出されるのは、かつての「書くこと」が、筆者と編集者、校正者、読者の共同作業であったという事実である。書くことはもともと、決して孤独な行為ではなかった。むしろ、常に誰かとの対話、媒介、介入によって成立していた。

生成AIとの共著という事態は、その共同性が機械と人間をまたぐ新たな段階に達したということである。そこでは、書く主体は単一ではなく、複数のエージェントによる交差点に出現する。

創造性とは何か、再び問われる

このような状況において、再び浮上する問いがある。「創造性とは何か?」である。

かつて、創造性は「人間に特有の能力」だと考えられていた。だが、AIが詩を書き、小説を書き、哲学的な文章すら書き始めたとき、私たちは創造性をどこに見出すべきか分からなくなる。

もし創造性が「既存の要素を新たに組み合わせること」であるなら、AIもそれを行っている。だが、私たちが創造的だと感じるのは、そこに感情の震えや、内的葛藤、世界との応答があるときではないか。

つまり、創造性とは単なる構造の組み合わせではなく、経験に根差した語りと意味づけの行為である。この意味で、AIが書くことの可能性は拡張されていても、人間の書くことは依然として「経験の意味化」という特権的領域を持ちうる。

だが、そこにも保証はない。なぜなら、多くの人間がすでに「意味よりも効率」を優先しているからだ。SEOライティング、テンプレート化された自己紹介文、量産される記事。これらは人間によって書かれていても、すでに創造性を剥奪された「書かれたもの」である。

AIがそれらを模倣しても、私たちは驚かない。なぜなら、それはすでに私たちが手放した「書くことの生」を反映しているからである。

書くことの価値の再編成

こうして私たちは、書くことの価値を問い直す局面に立たされている。かつて、書くことには時間がかかった。沈黙があり、熟考があり、推敲があった。しかし今、数秒で文章が出力され、思考は即時に消費される。

この状況の中で、「遅く書くこと」や「沈黙を抱えたまま書くこと」は、新たな倫理的実践となりうる。すなわち、即時性の暴力に対する抵抗としての「書くこと」である。

また、AIの登場によってむしろ人間の書くことが持っていた深さ、重さ、不可解さが際立つ。書くことは、情報の産出ではなく、存在の問いを含む。「誰が、なぜ、それを書くのか?」という問いに耐えること。それこそが、これからの書くことの価値となるだろう。

書くことの未来とテクノロジーの倫理

テクノロジーの発展と書くことの行方

書くことがテクノロジーであるという認識は、書くことの未来を語るうえで避けて通れない。なぜなら、テクノロジーの発展が書くことのあり方を変え続けてきたからである。

石板からパピルス、羽ペンから万年筆、タイプライターからワードプロセッサ、そしてスマートフォンとクラウド上のエディターへ。媒体が変わるたびに、書く速度、書く姿勢、書く対象が変わった。今やAIが書く世界において、「誰が書くか」さえも変わりつつある。

だが、この変化は単なる道具の変遷ではなく、私たちの思考の仕方、感じ方、言葉の重みそのものの変容を意味する。テクノロジーは道具であると同時に、私たちの存在の様式そのものを再構成する。

このとき、書くことの未来とは、単に技術革新の行き着く先ではなく、倫理的選択と実践の問題となる。

主語が消える時代 ─ 責任の分散と倫理の空洞化

生成AIの文章が社会に広がるにつれて、ある種の倫理的空洞が生まれている。誰が書いたかが曖昧になり、責任の所在が不明確になる。誤情報や偏見、差別的言説がAIによって生成されたとき、その責任は誰が負うのか?

この問いに対しては、「設計した人間」や「使用したユーザー」、あるいは「プラットフォーム」が候補として挙げられるだろう。しかし、実際にはそのどれもが回避可能な立場を取りうる。これは、主語が消える時代の倫理的危機である。

書くことは本来、「私はこの言葉を選ぶ」という責任の引き受けであった。だが生成AIの文脈では、この選択の責任が希薄になる。たとえば「ChatGPTがそう言ったから」「プロンプトを入れただけだから」という言い訳は、倫理を逃れようとする態度そのものだ。

この現象は、書くことの倫理を再定義する契機である。すなわち、誰がその言葉を引き受けるのか?という問いに、AI時代の私たちはどう応えるのか。

「書くことを引き受ける」という倫理

書くことをテクノロジーとして再定義した今、私たちは「書くことを引き受ける」という行為を倫理的な次元で捉え直す必要がある。

引き受けるとは、単に自分の名前を署名することではない。むしろそれは、その言葉が誰かに届くこと、誰かを傷つけるかもしれないこと、誰かに希望を与えるかもしれないことを自覚し、それでも書くという決断をすることである。

この倫理は、AI時代においてますます重要になる。なぜなら、あらゆる言葉が大量に、無責任に、即時に生成されうる今だからこそ、「遅く書く」「ためらいながら書く」「書かずにいることを選ぶ」という態度が、新たな倫理的価値を持つようになるからだ。

生成AIの文章が拡大する中で、読者は「誰が書いたか」を意識しなくなりつつある。しかし、そのときにこそ、「誰が引き受けるか」を問い続けることが、書くことの未来を支える。

倫理の技術としての書くこと

この意味で、書くことは倫理の技術(ethics as techne)である。倫理とは道徳ではなく、他者との関係において生きるための技術的実践である。

エマニュエル・レヴィナスは、他者の顔を前にしたときに生まれる応答責任を倫理の根幹としたが、書くこともまた、「まだ出会っていない他者に向けて応答する行為」として位置づけられるべきだ。

だからこそ、AIに書かせたとしても、そこに倫理を持ち込むことは可能である。どの言葉を選ぶか、どの生成を採用するか、どの出力を拒否するか。書くことの責任は、むしろ編集者・利用者の選択において増している。

「書かれたもの」が自動生成されたとしても、「書くことを選ぶ」「書くことを拒否する」判断こそが、今後の書き手の最も重要な技術になるだろう。

書くことが残すもの、そして書かれたものが我々に残すもの

Joan Didionの言葉を、あらためてここに置いてみる。

“I write entirely to find out what I’m thinking, what I’m looking at, what I see and what it means, what I want and what I fear.”
― Joan Didion

この言葉において、「書くこと」は自己の確認でも、他者への表現でもなく、未知への問いかけである。私は、自分が何を考えているのかを知らない。だから書く。私は、自分が何を見ているのか、それが何を意味するのかを知らない。だから書く。私は、自分が何を望み、何を恐れているのかを知るために書く。

このような書くことの在り方は、未確定性に身を投じる行為である。確信でも自信でもない。むしろ、揺らぎと迷いのなかで「書かざるをえない」衝動に近い。そこには、答えよりも問いがあり、目的よりも過程がある。

そしてこのような書くことは、AIには真似できない特異な営みでもある。

なぜならAIは、「自分が何を考えているかを知るために」書くことはない。AIにとって書くことは自己確認ではなく、出力であり、計算である。それは意味の生成ではあるが、意味の問いではない。

しかし同時に、AIによる生成がますます高度になるにつれ、人間の書くこともまた、形式化され、アルゴリズム化され、テンプレート化されていく。そのとき、私たちは果たして、Didionが言ったような「書くこと」の衝動を保持し続けられるだろうか?

書くことがテクノロジーであるならば、それは私たちが使いこなすべき〈道具〉であり、同時に私たちの〈生き方〉そのものである。

私たちは書くことで自分を知ろうとし、世界を解釈し、他者と接続しようとする。その営みはときに失敗し、ときに誤解され、ときに届かない。それでも私たちは書く。なぜなら書かれたものだけが、思考の痕跡として残るからである。

そして、書かれたものは、常に私たち以上の何かを残す。

それは、他者に読まれ、解釈され、誤読され、批評され、更新される。書くことは、自分を超えていくプロセスであり、自己という存在の境界線を解きほぐしていく運動なのだ。

だから私たちは、書くことを手放してはならない。

たとえAIがあらゆる文章を自動生成できるようになっても、たとえ効率や正確さにおいてAIに勝てなくなっても、「書くこと」が〈わからなさ〉の中に向かう技術である限り、私たちはその技術を磨き続ける意味がある。

書くこととは、自分にとっての世界の意味を問う、もっとも静かで、もっとも深く、もっとも力強いテクノロジーである。